普通の話

BY IN 週代わり企画, 雑記・日記 0

東京の春はとても暖かい。
朝の冷めた空気が太陽の光で緩和され、過ごしやすくなってくる昼前の快適な時間。僕は自転車でバイト先の家電量販店へ向かっていた。



東京の町並みには街路樹が多い。
目的地へ続く道は多くの木陰を含み、風と太陽が生み出すあの何とも言えない影絵の道を何度も通る。意識し始めると、自分の肌で感じる風と太陽も、まるで何百倍にもなったかのように感じる。
木は一本一本が一つの命であり、また自然という最も大きな集合の一端でもある。
実際に手近な木をよく見てみれば、一つの命として「生きよう」という意志がそこかしこから感じられる。幹は重力や地盤の影響を受けながらも太陽の光を求めて高く高く伸び、可能な限りに枝葉を増やし、生きようとしている。木の表面は硬くしっかりとしているが、そうなるのにかかった時間はどれだけだろうか。どれだけの養分を必要とし、どこからそれを集めたのだろう。虫が這っただろうか。子供が傷をつけたかも知れない。そのどれもを僕は知らないが、その全ての集大成が目の前にある。
どの木もそうだ。
次の木も、また次の木も、一つとして同じ存在ではないが、どれもがその潔く真っ直ぐな生き方を貫いている。それが自然であり、世界だ。

そんなただ「在る」ということだけで、僕は安心感と畏怖の念に包まれる。これほどの幸せはなかなか無いだろう。
そう思うと自転車を漕ぐ足が自然と遅くなる。一本一本の木をもっとずっと見ていたい。こんな日のために僕はいつも余裕を見て家を出ていた。
いくらか進むと目の前の信号がちょうど赤になり、僕は心の中でガッツポーズをとった。止まった大きな交差点は見通しが良く、力強い太陽の光が木の葉の無駄の無い配置を示すように、沢山の陰を作っていた。立ち止まって改めて眺めた木は、ゆっくりと風に揺れて無限のレイヤーを感じさせてくれる。この葉の動きをCGか何かで完全に再現するとこはできるのだろうか。誰もそれをやろうと思わないだけか。でもたとえそれができたとしても、ディスプレイを通して見たそれはこれほどの存在感を与えてはくれないのかもしれない。

信号が青になり、僕は後ろ髪を引かれるような気持ちで再び走り出した。

東京に街路樹が多いのは不思議なことでもなんでもなく、人間は自然から遠ざかれば遠ざかるほど、それに対する恋しさを募らせていくものなのだろう。露骨とも言えるそれらの並木道だが、僕はそんな「不自然」も嫌いではなかった。
自然に親しみを覚える人間の感覚は合理的とは呼べないものの、しかし一般的に認知された人間の「本能」だ。人間だって所詮本能に支配された動物に過ぎない。「本能に支配されたくない」という本能だってあるのだ。そんな人間が諦めにも似た実感として「自然とのふれあい」を望むのは未来への可能性がついえていないことを示していると思う。人間が自分たちの本能を認め、上手くやっていくための最後の砦なのだ。

しばらくすると街路樹の少ない道が続くようになる。
しかしこんな時はなにも木にこだわらずとも世界を感じることは容易だ。
例えばさっきから続くこの舗装された道路だって僕なんかでは到底理解しつくすことのできない世界の一端を見せてくれる。当然のようにそこにある道路でも、僕はその素材が何であるのかさえ知らない。誰がどんな研究の末に作り出したものなのか、それはどんな歴史の積み重ねの上にあるのか。この道路をつくったのは誰だろうか。計画を立てたのは、資金を出したのは、それを望んだのは誰だろう。どんな気持ちだったのだろうか。そうして完成した道路も、どれだけの経験をしてきたのか、それを知る人間はいないのだ。

自転車を漕ぐ足が自然と速くなる。こんなに走りやすい道路なのだから当たり前だ。そりゃそうだ。

今日も時間はゆっくりと流れている。
立ち止まれば、時間は止まる。歩き出せばまた流れ出す。
目的地について自転車を停め、道路を走り去っていく車を眺める。僕が知らない人生が休む間もなく通り過ぎ、次の人生がやってくる。僕を置いて行ってしまうようなそれら同士もまた、お互いを何も知らないのだろうけど。
何も知らないということは、こんなにも幸せなことなのだ。きっと世界は――

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